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山形県高畠町安久津:山形県立うきたむ風土記の丘 考古資料館

「うきたむ」というのは、山形県置賜(おきたま)郡地域の太古の名前、アイヌ語に由来していて、意味は「広く葦のはえている湿地」なのだそうです。
山形県ホームページ「UKITAMU田園通信」から)
古い言葉で、日本を『 葦原の中つ国 』や『 豊葦原の瑞穂の国 』と言い表すことがありますが、 山形県置賜郡地域も葦が繁る湿地が広がっていて、 瑞穂が豊かに実る、自然の恵みにあふれていたところ、という事なのです。

そして私が訪ねた考古資料館は「山形県立うきたむ風土記の丘 考古資料館」。
山形県の遺跡から発掘された重要な埋蔵品が展示されていました。
中でも山形県飽海郡遊佐町(あくみぐんゆざまち)の縄文期の遺跡から発掘された二つの遺物に、私は目を引かれました。

遊佐町は、最上川の河口の都市酒田市から北へ約20km。
東には標高2,236mの鳥海山がそびえています。
縄文の時代、もしかしたら旧石器時代から、鳥海山は日本海を往来する舟のランドマークだったんだと思います。
そして遊佐町は、縄文時代の日本海交易の重要な拠点だった可能性があると思います。

うきたむ風土記の丘

うきたむ風土記の丘 復元された竪穴式住居
葦が生えるのどかな水辺の住居。

青銅製刀子

出土地:山形県遊佐町・三埼山遺跡(遺跡の時期・縄文時代後期・約4000~3000年前)
刀子の形態:中国・シベリアなどでの出土例も報告されている「オルドス型」
青銅の特徴:殷墟(いんきょ)出土の青銅器(約5000~3000年前)と同じ鉛の成分率
サイズ:長さ26cm 幅3.2cm 厚さ8mm

ココヤシ

出土地:山形県遊佐町・小山埼遺跡(遺跡の時期・縄文早期から晩期まで(1万1500年前~2400年前)長期間にわたって存続)
日本列島にココヤシ(椰子の実)が流れ着いたことで有名な場所に、愛知県の伊良湖(いらこ)岬があります。
民俗学者の柳田 國男(やなぎた くにお)は伊良湖岬に一ヶ月滞在したことがあるのですが、その時、浜に椰子の実が流れ着いたのです。
この話を柳田國男が友人の島崎藤村に話したところ、藤村は、「名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実ひとつ」と、『 椰子の実 』の詩を書きました。
またこの椰子の実の話は、柳田國男晩年の作品『 海上の道 』の中でもふれています。
遊佐町の小山埼遺跡のココヤシも南の島から黒潮に乗って、そして黒潮から枝分かれした対馬海流に乗って、日本の山形県と秋田県の県境付近の縄文遺跡に『 流れ寄った 』のでしょうか。
あるいは、もしかしたら、縄文人は(または縄文人の一部が)太古の海洋民族で、「南の島のお土産だよ」って、持ってきたのかもしれません。きっとそうだったと、私は思いますね。

(福井県三方町の縄文遺跡・鳥浜貝塚からは、西アフリカ原産のヒョウタンの種が出土しています。鳥浜貝塚で栽培されていたとういうことです。 西アフリカから日本へは、海流に乗って運ばれてくるというのは不可能です。縄文時代のヒト(いろいろな民族の人がリレーしながらかもしれませんが)が持ってくる以外に方法はないと思われます。)


日本列島の青銅器

従来、青銅器は弥生時代(3000年前頃~1750年前頃)に、稲作とともに朝鮮半島から伝わったとされてました。

ところが、山形県遊佐町には、約4000~3000年前に、すでにこの青銅器はあった訳です。 これは、ただの例外?
さあ、どうでしょうか。ただ、「縄文人は青銅器を知っていた」、あるいは「三埼山の縄文人は青銅器を知った」ということは、間違いない事実です。

私たちは無意識のうちに、縄文時代や古い日本の文化をこんな風にみなしていないでしょうか。
日本列島は海で断絶させられた極東の孤立した地域だから、 中国大陸や朝鮮半島と比べると文化的に遅れたところだ、後進地だったんだと。

しかし縄文時代の人々は、すでに海の向こうのことも、さらに続く北ユーラシアのオルドスの高原地域のことも、知っていた可能性があると私は思っています。
はるか昔から、役に立つものは取り入れてそうでないものは受け入れないで自分たちの文化の独自性を維持してきた、それが日本列島の住民の生き方だった。
どう思いますか?

日本人が、そして日本語が来た道

ひと昔前のアイヌ語地名説では、金田一京助が南限とした日本海側の鼠ヶ関から太平洋側の勿来の関と白河の関を結ぶ線まで、というのが主流でした。
日本本土の地名へのアイヌ語の影響は、北から南へ向かって薄くなっているのを前提としていると言えます。
しかし、九州よりも南に屋久島があります。
  ヤク > ユク : アイヌ語で「ユク」は「鹿」
さらに種子島はどうでしょう?
  タネ > タンネ : アイヌ語で「タンネ」は「長い」
こうなると、アイヌ語地名の中には、南から北上したものもあるかもしれないと思えてきます。

中国で黄河文明が栄えるよりも3000年先に、揚子江河口付近で長江文明が興りました。
そしてDNA分析では、日本人は朝鮮半島人や中国の漢民族よりも長江文明跡から出土した人骨や中国南部の少数民族に近い集団であることが分かっています。
そうすると、太古の日本人の中のどれほどかの集団は、柳田國男が論じた『 海上の道 』を、水稲の稲を携えて舟で日本にやってきたのではないでしょうか。

山形県立うきたむ風土記の丘 考古資料館・・・
そこで見たものは、私の心を、また次の旅へといざなうものでした・・・

令和7年9月 記

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